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2022.03.07

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土田病院と上野公園、そして寛永寺

筆者:広瀬徹也(土田病院特別顧問)

土田病院から至近距離にある寛永寺(写真)は入院された方が最初に向かう散歩スポットで、四季の花も楽しめる、こころ休まるお寺です。春のしだれ桜は格別で、カメラを手にした観光客が増える時期ですが、それでも病院を挟んで反対方向の“谷根千”といわれる区域に比べ、観光客は意外に少なく、静けさが保たれているのは嬉しいことです。
上野公園は少し元気になられた方々の日々の散歩コースに欠かせない所で、皆さんよくご存じのとおりです。ところで、土田病院の番地である「上野桜木一丁目」は上野公園に属すそうですから、病院と上野公園の縁は非常に深いものがあります。そして寛永寺と上野公園の関係は更に深く、歴史のドラマになっていることはご存知の方も多いことでしょう。それは昨年の大河ドラマ“青天を衝け”の時代背景にも関連していますから、その目で寛永寺と上野公園を見直すのも面白いかもしれません。
 

“寛永寺”の名前は寛永2年(1625年)に建立されたところからきており、3年後の2025年は400周年という大きな節目を迎えます。正式には東叡山寛永寺と言われ、西の比叡山延暦寺と並ぶ、天台宗の東の大本山です。延暦寺が京都御所の東北の鬼門に建てられたように、寛永寺は江戸城の東北の鬼門に位置し、芝の増上寺(浄土宗)と共に徳川幕府の菩提寺でした。当然ながら両者の関係は難しいものがあったようです。そのため日光に祀られた家康と家光を除き、歴代将軍はどちらかに祀られたのです。ただし、最後の将軍・慶喜の墓が寛永寺でなく、渋沢栄一や遠藤眞実院長のご両親と同じく、これまた病院近くの谷中霊園というのは嬉しいご縁で、自由に拝観できるのもありがたいことです(寛永寺内の将軍の墓は公開されていません)。

ところで、元来の寛永寺はほぼ現在の上野公園全体が敷地で、根本中堂は公園中央の噴水辺りに、博物館の庭園が寛永寺の裏庭だったというのですから、実に壮大でした。その寛永寺が現在のように縮小された経緯を知るには、「上野戦争」の歴史が欠かせません。そこで、上野戦争について少し触れてみたいと思います。

幕末には西郷隆盛らの新政府軍に対抗して、徳川慶喜を守る旧幕府側の抗争・衝突が各地でみられていました。その“戊辰戦争”の発端となった、1868年(慶応4年)1月の鳥羽伏見の戦いに新政府軍が勝利。そこで、江戸城総攻撃を前に同年3月、西郷隆盛と旧幕府側の勝海舟との会談が品川で行われ、西郷のスケールの大きい人柄に勝が心酔して、江戸城の“無血開城”が実現したのです(ここで、当時寛永寺に謹慎中の慶喜は水戸へ)。 しかし、それに納得しない血気盛んな彰義隊が寛永寺に立てこもって抵抗したため、新政府軍が彼らの掃討を目指したのが上野戦争です。
 

1868年5月15日の朝、戦いの火蓋が切られました。新政府軍は薩摩、長州、佐賀諸藩などから成っていましたが、広小路方面から攻めた西郷隆盛が率いる薩摩藩の軍勢が、現在の桜並木の坂下にあった寛永寺の黒門(写真)から攻めて、激戦となりました。さらに佐賀藩最新鋭のアームストロング砲の砲弾が不忍の池を超えて打ち込まれ、寛永寺は灰燼に帰したのです。

なお、砲声響く中、芝の慶応義塾で、福沢諭吉が動ずることなく西洋の経済書の講読を続けたことが、今に続く慶応義塾大学の精神的支柱(記念日)となったことは、上野戦争の思わぬ副産物といえましょう。

さて、生き残った彰義隊はあらかじめ退路として残されていた、根岸方面から日光街道を北へと逃げ去り、上野戦争は一日で新政府軍の勝利で終わりました。戦いの象徴になった前述の寛永寺の黒門は弾痕を残したまま、266名の彰義隊戦士の霊を祀る、南千住・日光街道沿いの円通寺に移築されています。なお、上野公園にも彼らの墓碑があります。

退路を残したことが上野戦争を一日で終わらせた要因と認められ、新政府軍の指揮をとった、長州藩の大村益次郎は優れた戦略家として評価され、靖国神社前の銅像にもなっています。 なお、“青天を衝け”の主役で、慶喜に仕官した渋沢栄一は当時、パリ万国博覧会視察等の外遊中で、騒乱には関係していません。一方、共に仕官した従兄の渋沢成一郎は彰義隊の頭取でしたが、内部の対立から上野戦争には関与せず、その他の戊辰戦争に参戦。一時の投獄を経て、役人から実業家へと転身しました。 さて荒廃した上野の山をどう復興するかが問題となりました。当時その必要性が叫ばれていた医学校や病院をそこに建てる案が有力でしたが、西洋医学の教育に派遣されていたオランダ人医師、ボードワン博士が首都東京に市民の憩いの場となる大公園の建設を提案し、それが実現されて、現在の上野公園ができたのです。まさにボードワン博士こそ上野公園の生みの親なのですが、公園開園百周年記念の1973年に造られた博士の胸像(写真)は、噴水広場と都美術館の間の木立の中にあるため、気づく人が少ないのが残念です。是非探して見てください。
 

寛永寺は大幅に縮小されましたが、病院の近くになったのは幸いでした。上野公園は広大な敷地に博物館、美術館、音楽堂そして動物園やお花見スポット、野球場など、実に多くの人々を楽しませる施設を備えており、世界的にみてもNo1の都市公園と断言できます。
 

さて上野公園といえば、西郷隆盛の銅像といわれるほど有名です。病院からは一番遠い位置にありますが、時には頑張ってそこまで足を延ばして、見上げてほしいものです。

西郷隆盛は明治維新の大功労者ながら、西南戦争を起こしたことで、逆賊扱いされていました。しかし、勝海舟が明治天皇を説得して、再び功労者に返り咲いたのです。そして、芸大教授、高村光雲(息子は詩人・彫刻家の光太郎)渾身の製作になる銅像(写真)で、今では上野公園のシンボルにもなっています。 時にはうつに悩まされながらも、「天を敬い、人を愛す(敬天愛人)」を生涯のモットーとして実践し、誰からも敬愛される、永遠のカリスマ・代表的日本人である西郷どんに上野公園をずっと見守って頂けるのは、実にありがたいことです。(写真は筆者撮影)